それにしても、世の中めまぐるしく変っている。
やはりITの威力は凄い。いつの間にか、人の、生活を変えて、今では、ITの情報によって、ものごとが終始しているよう。
電気製品から趣味、習い事、仕事の斡旋までほとんどがITのお世話になる始末。そうそう、悩み事、もうすぐ恋愛までお世話になりそうな気配です。
人の生活のほとんどがITに占められた??さて、そこで、置き去りにされたのはなんでしょうね?いや、あるはずですよ!置き去りにされたものが・・・。何かものたりなくなってない?砂をかむような味気ない感じはしないだろうか?こうなったら、少し、影響を受けているかも・・・。しかし、まだ私達は、情報化社会の入り口に立っているようである。もっとITを使って活かさないと、ITのよさは、まだまだこれからよ、素晴らしい世界が待っているかもしれないのに・・・。人との面倒な関係より、自分で、情報を駆使して、すっきり暮らせるのじゃあないかしら。しがらみから自由になれるほうが自由でいい、と。
しかしITは、やはり機械、コンピュータ-―である。その意味では使い方が問われるのである。
心は、生き物。行きたいところに行き、感じたいように感じ、将来の希望に向けて方向性を探る。そこに解決しなければならない問題があれば、一生懸命考える。このような、感情や思考そして意志や行動のバランスが私達、人間のあり方を感じさせてくれるようだ。
適応障害、鬱、パニック これらは、現代の心の問題の症状としておなじみの障害である。これらに共通するのは、心の方向性が柔軟でなくなること。何で、柔軟性が失われるかというと、ある事柄を恐いと思って、心がその恐さで、固まってしまうから。その怖さは、1つの恐怖の砦。この砦に行きついたものなら、引き返すか、隠れるかとにかく、自分をその影から守らなくては、という思いで心が占められ、自由を失ってしまうのである。
心はその恐さから自分を守ることに必死になっているので、その恐さが先立ってほぼ全身で、その恐怖を感じ取ってしまうようである。ひとの心の機能は、安全に対して、ひどく敏感になるので、恐怖に対しては、過剰に防衛してしまうもの。これが適応障害、鬱、パニック、といった症状を引き起こしているのではないだろうか。
生物である以上、一番恐いのは、危険だと認識したとき。それは、様々な症状を呈するのだろうが、人は社会的動物であり、そこで認められない不安を持つと、またこれが、その症状を持つことに対しての二次的不安を感じてしまうのである。かくして、人は、何とか安全な場所へと引きこもろうとするのだが、そんな自分の姿がまた、何とも言えずに不安に感じてしまうのであろう。
何でこうなってしまったのだろう?最初の恐怖から端を発し、何とかしなくてはと思いつつ、対決する勇気も持てず、それに対しての解決策が取れないままに、追い込まれた不安で神経がやられる。ところが、どうかすると、追い込まれたという意識もなく、無意識の不安状態の中で、症状が出てくるので、人はおおいに戸惑うし、何故だか分からないので不安になってしまうのであろう。
心の問題の難しさは、心が見えないものであるということ。そして、意識の性質によって、自分の目の届かない無意識の状態が、色々な動きをするということ。しかし意識できる部分はコントロールができるが、無意識はコントロールが難しい。
何とか、この無意識を手なずけなければ・・・。それには、ヒントになるものを探さなければ。心理学者のこれまでの仕事が、これからの道しるべになって解決の方向に導いてくれるのではないだろうか。
フロイトは無意識の発見、ユングは、性格のタイプと集合的無意識、アドラーは、性格は共同体感覚へのまとまりの中で成長を遂げるという具合に。
そして、日本の森田療法は、これらの心の問題を、恐怖ゆえの捉われ、と位置づけ、恐いままに、(あるがままの姿で)進みなさいと勇気付けて、対応を促したのである。無意識といえども、人の感情は、合図を送っているようである。虚心坦懐に感情に気がつくことによって、多くは救われるのかもしれない
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