自分の向かう方向性と価値が自覚できてくると、自分の中に、これでいいのだという自信と心の余裕が生まれてくるもの。
しかし、自分は一体何を求めているのだろうか、あれをしたりこれを読んだり、試行錯誤で今までやってきたものはなんだろう?などと考えてしまうときは、よく何かを求めて、旅行し、その中で遊んだり、面白いことに首を突っ込んで、帰れなくなった夢を見ていないだろうか。
かといって、実際に、そんな行動を取るわけでもないし、夢でよかったと思うのであるが、実際の気持ちは、揺れ動いている。夢の中で、やっていた遊びや行動は、自分の世界と離れた遠いところにしかないなら、楽しさ半分あるいは、そんなところに行ったら帰って来られなくなる、帰りの電車に間に合わなくなる、といった警告の夢になって、心にブレーキをかけているのだろうか・・・。いやいや、その夢の本当の意味は、「いま自分がやりたいと思っていることは、うまくいってないよ、そんなことをしていても、自分の道には行き着かないよ」ということなのかもしれない、などと思ってしまう。
そもそもどこがいけないのだろうか?どこかよそに行って、楽しいものを見つけるという、よそにその欲望を求める、ことがどうなのだろうかと、ふと思った。
どうも、浦島太郎の伝説の意味と重なってきそうである。実際、夢の中では、楽しいのだが、現実には、人生の喪失、失敗である。
往々にして、私たちは、楽しいもの、きれいなものに惹かれる、ところがある。現実がつまらない、おもしろくないと特にそれを求める傾向が強くなる。そして、それを求める気持ちが、夢に現れてくるようだ。「現実はつらいし、おもしろくないよね。楽しいところに連れて行ってあげる」と自分で自分を夢で、まどわしているのでは・・・。と思えなくもない。夢を見る、何かを求める、それ自体は、自分を動かすエネルギーになるのであるが、そのエネルギーの方向に注意していかなくては、足を取られてしまうのではないだろうか。
特に、夢を現実と混同してしまうと、上のように夢に惑わされてしまうかもしれない。
自分の求めるものが、真の欲求からきたものか、自分の現実の生活から生まれてきた価値あるものか、その判断の真価が問われている。そしてその判断を間違えないためにも、自分の今ある現実の課題、―それは、ある人には、仕事であったり、人間関係であったり、勉強であったり,育児や家事であったりするだろうが−を踏まえながら、自分の方向は、これでよいのか、自分の受け止め方を問いながら進んで行くことである。それを現実の中で、幾つもやっていくうちにやがて、これでよしという方向が感じられてくるのではないだろうか。もちろん険しい坂にも出くわすし、厳しい言葉にも出会うし、失敗もある、試行錯誤の道でもある。またそれだからこそ、豊かな道にもなってゆくのではないだろうか。現実の体験の中で自分を鍛えるしかないのである。
“青い鳥”は、遠い彼方の世界でなく、あなたのほんの身近なところにいる、この言葉が何を伝えようとしているのか、これを忘れないようにしたいもの。
そして、あなたが身近に、青い鳥に気づいたとき、あなたは自分の世界にいる自分を見出し、ちょっとした心の満足を味わっていることだろう。
これは、私自身が、長年かかって、自分の中に見出したいものを、見出し、それをもとに、自分の世界を作り出すといった作業を、ずっと以前から好んでやっている、ということへの気づきを得られたからである。
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