あなたは、自分が自分を超える「とき」に遭遇したことがあるだろうか?
それは、どんなときだった?どんな風にそれを感じたのだろうか。
新しい何かを感じたとき、今まで、感じたことがない感じ、そして、明らかに、自分の心はそのことに、世界が広がる予感を感じている。そしてそれは、突然やってくることもあるし、苦悩の末に、或いはこつこつと努力してたどり着いたという事もあるだろう。インスピレーションという形、登りつめたという感じ、気がついたらそこにたどり着いていたなどといった感じかもしれない。
そして、そこにたどり着けるとは、ちょっと予想しなかったかな、という感想も持つかもしれない。
本当は、そこで何が起きたのだろう?
一歩、一歩進んでいる自分の姿、苦労し、必死で頑張っている自分、そんな自分だけど、人生の階段はまだまだ途上、頑張る力はある、もう少しこのまま上って行こうと思いつつ、ここまで来た。
何でここまで来れたのだろう?自分自身の与えられたもの(普通これを才能というが、誰にも大なり小なり、与えられたものはあると考えられる)、そしてそれをやるしかないので、それに集中していき、そして、なんとか持続して、今日まで来たのだが・・・。それらがあいまって、自分にとっての新しい世界が準備されたとでも言うのだろうか。
昔話や童話に見られるストーリーには、共通しているところがある。それれは、主人公がたいてい自分の、与えられた境遇に忠実ということ。そしてその中で、自分の気持ちにそって、「善し」とされることを行う、というストーリー。
例えば、誰でも知っている「花咲じいさん」の物語。
可愛がっていた、シロが「ここ掘れワンワン」というので、そこの土を掘ってみると、小判がざくざく、ところが、それを見ていた隣の欲張りじいさんにシロを無理やり連れて行かれ、畑でワンワンといわせて掘ってみると、出てくるのはガラクタばかり、怒って、シロを殺してしまう。そこで、この花咲じいさんは、可愛そうなシロのなきがらを埋め、棒を立てて手厚く葬った。そうこうするうちに、シロのお墓にと立てた棒がいつの間にかりっぱな木となり、おじいさんはそれでうすを作って、お餅をついたところ、中から宝物が次々と出てくるではないか。またまた、隣の欲張りじいさんがこの話を聞きつけて、うすを無理やりうばい、餅つきを始めたところ出てくるのは石ころばかり、とうとうそのうすを焼いてしまったのだが、またもや、この花咲じいさんはシロの夢を見て、お告げどおりにこの灰を枯れ木にかける。するとあっという間に枯れ木に花が咲き、殿様に誉められた。ところが、また、欲張りじいさんがまねをして、枯れ木に灰をかけ、かけすぎたその灰が、殿様の目に入ってお咎めを受けたというおなじみの物語。
与えられた境遇に忠実というところに、「あまりに、弱い」と疑問を感じるところもあるが、話の筋から言うと、むしろこれを、自分の与えられたもの、すなわち才能に忠実という、読み解きでよいかと思う。そして、様々な試練の中で、この自分に与えられたものをいつも、その持つ性質を活かすという点に努める、態度で取り組んでいる姿が浮かび上がる。
いかに自分の心の声(ここでは、シロ)に耳を傾け、それに忠実に、取り組むことができるかが、問われている。
私達は、よく、どうすれば上手くいくのか、成功の方法や手段などを探したり、成功者の言葉を参考にしたりしているのだが、実際の人生は、どのように進んでいくのだろうかと、真摯に問うことは少なくなっているような気がする。
「いや、どうせ問うなら、普通の人生よりも成功者の生き様の方が、参考になるさ」、といって偉人伝や、「私はこうして成功した」といった類のストーリーを手にしてみるのだが、読んでみて、感心はしてみるものの、自分との違いを知るだけに終わることの方が多いような気がする。
違いに気づく人はまだしも、自分を偉人や、成功者に置き換えてその成功を夢見るとなると、「花咲じいさん」の、欲張りじいさんと同じ道に行き着くだろう。
どうして、こうなるのかは、このストーリーを味わうとよくわかるのであるが・・。
それにしても、花咲じいさんの、持っている、精神性、心は、なんと、柔軟で、辛抱強いのだろう。世の中の人(欲張るじいさんに代表される)の持つ欲に、もまれて、最後に灰になったところで、「あーあ、とうとう」と打ち砕かれてしまいそうになりがちなのだが、「枯れ木に花を咲かせましょう」と花咲じいさんの命の再生を象徴するかのように、「灰」が世界に向かって撒かれていく。小判や宝物の象徴しているものは、この世の成功であり、個人の栄誉として考えやすいのであるが、灰は、自分から離れて、世界のために何かの役に立つように広がる、心の精とでもいうものかもしれない。花咲じいさんの新しい世界への旅立ちである。
H24年3月14日
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