とりたてて、これといった特徴、例えば有名であるとか、特殊技能を持っているとか、お金持ちであるとかといったところはないけれど、生き生きと自分の生活を送りたい、自分が生活の主人公といったライフスタイルをと思う人は随分多いのではないだろうか。
何かのために、何かのゴールを目指して自分の生きるエネルギーを傾け、わき目も振らず、突っ走ってきて、たどり着いた地点で、ふと振り返るとそこは期待していたところとは何か違っているような、少々殺風景な風が吹いている日常に気づいて、こころ淋しい思いを経験される方も多いのではないだろうか。
大人になることは、勉強し、経験を積み、能力を伸ばし、社会でやっていくことだとある意味、割り切って今日まで来たのだけれど、そう思い込んで、自分を駆り立ててきたもののもたらすものは、際限のない道ではないかって、ふと立ち止まって思ってしまう、こんな筈では・・・。何かを忘れてきたのだろうか?
そう思って、ふと通りすがりの道端で、目にしたスミレ、その可憐な美しさに惹かれて思わずほころびる気持。
身構えが少なくなってみると、今まであまり感じなかったものが、よみがえってくる。季節は春、菜の花の優しい黄色が風にそよぐさま、青空の桜の鮮やかさ、うーんこれを見ただけでも嬉しくなる気持。
きっと心は、見たいものを見て満足なのかも知れない。
「やはり野に置け、スミレ草」といった言葉が暗示しているのだろうか。置くのはスミレ草だけでなく、わたしたちの心も、時には野においてみてもいいような気がする、いやきっと、そう望んでいるのではないだろうか?心のふるさとは、やはり‘自然’ではないだろうか。そのやさしさに時には包まれたい、と思うのは私一人だろうか?
心は、自分の感じたいものを求めているし、心の持ち主にもっと自分の求めているものに気づいてほしいのだ。暖かい陽だまり、緑にそよぐ風、穏やかな波の音、春の野草、れんげ畑、目を向けるとそこにあるもの、でもみたいと思う心が引き寄せるもの。
どこに身を置くかで世界は随分違ってくるもの。心も同じ、どこに置くかで感じるものが違うようだ。そぉ〜と自分の心に耳を澄まして聴いてみよう。今何がしたいのか、何処に居たいのか?視点をもっともっと身近に落としてみてみよう・・・・。
心の望みに素直に応じられるようになると、きっと日常が気がつかないうちに輝いてくるような気がする。
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