私達は、その心を通してお互いに結びつき、家庭や社会を築いている。
そして、それは、少し、編み物に似ているかもしれない。うまく編み目が続くと、とてもきれいに揃っていくのであるが、編み目を、抜かしたり、間違ったりすると編み物全体が、ほどけたり、曲がったりしてうまくいかなくなる。そして何よりも、編む気力を失うと、編み物自体がストップしてしまいかねない。
こころを編んでいく人の、在りようによってそれが起こっているならば、その心の持ち主の在りようを、整えることが求められる。
もしかしてその心の持ち主は、知らず知らずのうちに、とても苦しんでいるかもしれないし、傷ついた心を引きずったままかもしれない。
この先どう進んでいけばよいのやらとても混乱し、とまどっているのかもしれない・・・。
そして、それは、多くの場合、人と人を結ぶこころの働きがうまくいっていないために、ストレスとなってしまっているのではないだろうか。
つまり、そのストレスに対する反応として、ある人は、攻撃的になって、つい怒ったり、ある人は、その攻撃を受けてしまったりで、心が痛んだり、自信を失ったり、ひどく疲れたり、恐れを感じたりする状況が、仕事や、家庭や色々な場で、起こりがちなのではないだろうか?
これが機械であれば、修理するとか、取替えるとかで何とかうまく働くようになるのだろうが、こころの働きを、うまく働かせるためにはどうすればよいのか?
問題は、そのストレスの起こっている原因が様々であり、またその受け止め方も様々であるということではないだろうか。
古今東西、多くの先人達は、人の心の問題のために、答えを求めて色々な教えを導き出し、残している。
ギリシャの哲学者ソクラテスは、「汝自身を知れ」と、アリストテレスは、人は、人としての共通な感覚を持っているという考えを示したし、キリスト教や仏教は、愛の教えを始め、人生を生きるための教えの宝庫を今日に伝えてくれている。
今更だが、やはり私たちの心には、心の癒しと健康のために、自分自身の考え方や感じ方―これこそが心理―について、どうなのか、をもっと分かることが問われているような気がする。
そして、自分の心の求めるものを見出すためには、自分一人だけの心では、なかなか理解が難しいもの。他者との共通するもの、違うもの、それぞれのもつ個性を、自分の心をふり返りながら、お互いの心の状態を感じ取りながらでないと、なかなか掴みにくいもの、だと思われる。
それだからこそ、人は一人ではなかなか生きていけない、といわれるのである。
なぜ、こんなに、人の心は違うものを持っているのか、このことをお互いどのように認め合えばよいのだろうか、を心理学の知恵や多くの教えを通して幅広く、学び、吸収していきたいもの。
お互いのやり取りの中で出会う、心の結びつき、どんなに自分と違っても、その違いのゆえに、形作られる「絆」を知り、大切に思う心が育つ中で、成熟した心への道が可能になってくるのではないかと、思われるのであるが・・・・・。
強いものは、弱さを助け、速いだけが、良いわけではない、じっくり取り組むことでしか分からないこともある。
多くの童話や、昔話の中で伝えられた心は、今でも、私達に語りかけている。
それこそが、これから望む人生模様に、生きていくのではないだろうか。
心の課題は、人の人生を通して、いつでも提起され、それを自分自身のものとして取り組むことから始まるようである。
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