自分で自分の心が落ち着いているという場を感じられたら、そしてそこにいるのが、何とも、言えずに、普通に心地よい、と感じられたら、何と、人は幸せなのだろう。そのままでよい心の居場所。何にも思い煩うことなく、あるがままの境地、それは手の届かないところにしか存在しないのだろうか。いえ、いえ、それは、普通に誰でもが持っている心の境地だと、昔から、悟った人は、後世の私達に伝えてくれている。この言葉の意味を、実は、背景に、私たちの日常は、日々の雑念と雑事で、多くのときを過ごしている、いつかは、そうなれるのじゃないかという、可能性に期待をかけつつ。しかし、かなたに「幸せはある」と、かの悟りの人は言っているのだろうか。
仕事をしないと、収入は入らないし、人とつながっていないと、寂しくなる。家族のつながりは、時に圧迫を感じても、自分の存在をじかにつなげる命の輪。そんな中で、私たちの思いは、時に理想を追い、足らない自分の力を憂い、現実の中に確固とした自分の力を打ち立てたく、日々、目標に向かって走ろうとし、いくつもの壁に突き当たる。
気づいてみれば、自分で作ったとおぼしき「観念」の壁の中に囲まれていたりする。時に、その壁が、高く、とても乗り越えられなくなって、息が上がってしまい、意気消沈してとまってしまっても、満たされない心は渇望に、さいなまれてわれと我が身の置き所さえ、見出せない。
心が、伸びきったゴムのようになってしまい、弾力性を失い、普通に感じることも感じられなくなってしまっている。
レディ・ガガが自身の摂食障害を、表明し、ダイエットの風潮に、警鐘を鳴らし、若い女性のための勇気ある言葉を投じている。「ダイエット戦争は終わりに!」と。
摂食障害になると、初めは、軽いダイエットのつもりが、ダイエットをはじめたときの目標を、食べない、或いは、食べて吐くという行為が、その目標をどんどん押し上げ、自力では、止められなくなる、という。視野が、限られて、1つの目標が、くっきり、毎日の習性に食い込まれて、自動的に繰り返してしまう傾向に陥るのであろう。始めは、そんなに極端にはならないだろうと思われたことが、この習性にくい込まれると、だんだんエスカレートするから恐い。
人は、自分の周りの状態から、何か、自分にとって、「大切だ」と思える目標を設定して、それに取り組む。世間でよいと認められる事柄が、目標になりやすい。以前は立身出世で、末は博士か大臣かが、浮き出ていた。今は、マスコミで、女性の美しい、スマートさが、写し出され、美のモデルとして、いやでも目に焼きついてしまう。もちろんこれだけではない。ただ、多くの人が、追う世間的に良いとされる価値が、「良い」と「良くない」という2つの傾向の二律背反の形でそれを追うと、程度が進めば進むほど、その人の現実の実態とかけ離れるために、悲惨な状況に追い込まれてしまいがちである。ダイエットが、拒食症になったり、片思いが、ストーカーになったり、そこには、何か、ほかに満たされないものを、それによって代わりに負おうとする、エネルギーの代償行為として現れやすい。それは、満たされないエネルギーのはけ口を見出したかのように、一方に注ぎ込まれる。
まさに、目標をもとめて人は、動くのであるが、現実という制限の中でその目標も上手くいかないことも多い。そこで、その目標と現在の自分との間で、もう一度、それらについて確かめる機会が生まれる。時間の経過によって、自分も目標の価値も変わってくるものであるし、時間を上手く使うという事は、この自分の力と自分の追っていた目標との調整をしながら、自分に可能なやり方を見出すという事になるのではないだろうか。そうすれば、ダイエットが、心と体の健康法になったり、片思いは、恋愛小説になったりとその変容の成果は、今日の時代の問題解決へと続いていくかもしれない。
そして、時間を上手く使う最大の使い方は、“今”という時間に、じかに感じられる感覚をしっかりと受け止めることである。伸びきったゴムのような心では、到底受け止められない。では、どうしたらよいのであろうか。かの悟りの人、道元の言葉、「今、自分が存在している場所で真実を見つけることができないなら、いったいどこに真実があるというのだろう。人生は短く、何びとも次の瞬間がなにをもたらすかを知ることはできない。心を養いなさい。その機会はいくらでも訪れる。やがて、すばらしい知恵を発見することになるだろう。そうすれば、今度は、その知恵を他の人々と十分に分かち合い、彼らに幸福と平和を与えることができる。」と説き、瞑想による心を養うことを薦めている。
自分がもつ目標が、自分だけのためじゃなく、自分を含めて何か人のためになることだと感じられてこそ、やりがいという心の成果を得、自分を感じられるものである。この自分の目標の有益さを感じるという事がなくては、人は、本当の自分の“食べ物、養分”を得られない。そして、自分の心を伸びきったゴムにしたままでは、決して、その“養分”は感じとれないであろう。伸びきったゴムは、何かを結ぶために一時的に伸ばすもの。その何かがわからなくなってしまったり、ちょっと違うかなと思ったときは、いたずらに、背伸びしているのと同じ状況であろう。このことは、自分が伸びきったゴムと同じ状況、自分の現実を無視して必死で背伸びしている状況を想定してみるとよくわかる。
何かに引っ張られて、あなた自体が、伸びきった状態にいるときは、どんなときだったか、思い起こすことができるだろうか。必死で、自分の足を支え、よろけそうになってもさらに、上を見ないといけない、と思って、自分を必死に維持している状態。
それは、誰でも多少なりとも経験あること、のように思える。そして、この苦い経験の中から、伸ばそうと無理をしていた、自分に気づき、それを手放したとき、手放さざるを得ないときに、ふと自分の「情けないが、自分である」姿が、垣間見えると、しめたものである。これの繰り返しで、自分に出会う“とき”をもち、少しずつでも心を養いたいものである。
H24年2月13日 |