「そんなことをしちゃ、ダメ」いつのころからか、よく言われていた言葉・・・・。
そして、大きくなっていくたびに、それを言われることが多くなり、この呪文は、「これをしていいのか?出来るのか?」と、自分の中でいつも繰り返されていたような気がする。
ところが、目のほうは、そんな自分を尻目に、どんどん進んでゆく、回りの世界の美しさと底知れない豊饒さに魅かれ、春は、咲き競うれんげやクローバー、チューリップ、初夏は新緑、田植え、秋の落ち葉や、キノコとりとその世界は、いつでも開かれていた。そんな中で、自分の、世界を見る目は、見たいものを見るのだといわんばかりに、果てしなく広がっていった様な気がする。
こんな自分に何ができるのだろう?「してはダメ」と、多くの制限を課せられ、自ら、規制していた私に。でも世界をこの目で見たい、捉えたい。見るのは自由、そして思うのも。いつしか、空想の世界が果てしなく広がり、色々、自分の見たいもの、ほしいものが繰り広げられていった。よく夢の中でも、そんな光景が、繰り広げられていた。
次から次へときれいなもの、欲しいものが並び、それを見ている場面へと。でも決ってそれを取って、何かに活かしたり、自分のものにしようかどうしようかというところで、迷ってしまうのである。一緒に来た人たちは、草々に決め、気がつくとひとり取り残されて、時間が無くなり、少々パニックになって、帰路に着く。ところが、あまり遠いところまできてしまっているので、帰り道に迷ってしまい、何処をどう帰ってよいのか分からなくなってしまう。こんなことをしておれない、「アー、試験の単位落としてしまいそう」と現実の仮想された「ゴール」が、失敗を突きつける。
このストーリーはどこかで聞いた話とよく似ていないだろうか?
そう、「浦島太郎」とか「不思議な国のアリス」とか、やはり、夢の世界を描いた以前からのベストセラー。となると、この夢は元型として考えられる夢なのかもしれない?!
夢と現実との関係、この両者の間のバランスの問題として人の精神、心がかかわっているということになるのだろうか?
そういえば、上の夢を見ていた人物の、心はどうなっているのだろうか?
現実の様々な課題、お手伝い、掃除や片づけであったり、宿題であったり、試験であったりする、上から課せられているものに対しては、自分はなかなか上手く出来ないという苦手意識を持ってしまい、その結果、なかなか手が出せなくなってしまうのではないだろうか。
このように、様々な課題に対する『出来ない』という苦手意識が、現実の課題から遠ざかる一つの要因にもなっている、と見ることができる。そして、その苦手意識は、往々にして、子どもの未熟さに対する、周りの大人の関わり方によるところが、結構、大きいのではないだろうか。子どもは、未熟な自分のやり方や進むべき道を閉ざされると、いつとはなしにそれから遠ざかり、自分の許された、自由の空間へ自らの心を移してゆくのではないだろうか。となると『出来ない、苦手』という苦手意識が、現実への努力に取り組むことにより、色々なことが『出来る』と変わるにつれて空想や夢も変わってくる、ということになる。以前の帰り道に迷っていた夢は、今や、近道を見つけ、ヤッターと、悠々と帰っていく姿に取って代わるのである。
また、他の要因として考えられるのは、現実があまりにも子どもにとって、難しい場合である。貧困や、戦争、親の不和など、およそ、社会や、家庭のストレスは、子どもに、現実への取り組みを断念させるに十分な力を持っている。
この力は、とても強いので、前述のアリスでなく、ピーターパンを生み出し、大人社会を否定し、子どもの世界への閉じこもりを望み、逆に子どもの世界の主張で、大人の世界を批判する立場に身を置くようになるのではないだろうか。
こうなると、現実の世界に帰ろうとは思わないし、本人は、帰るところをもたずに、永遠の憧れの世界に身をおきたいという、切ない、叶えられない、夢の世界にとどまり、気がつけば、他の子どもは大人になり、自分一人、夢の世界に取り残された世界で生きていくことになるのではないだろうか。
この二つの傾向は、何を意味するのだろうか?
人の成長、人生の過程の中で、わたしたちは、いかに子ども時代に大きな影響を受けるかということであり、その兆候は、既に子ども時代の初期に現れ、多くは、その子の性格や、能力の問題として、その後の人生の問題として、引き継がれていくということである。
前者の夢を見る子は、自分の能力の問題としての、劣等感に悩み、後者にかかわる子は、無力感に悩み、自分の存在のあり方、ひいては社会に対して強い不満を内包するのではないだろうか。
この二つに人生のスタイルにいかに取り組んでいけばよいのか、この課題についての方向を見出す、人生行路の探求に進んで行きたいと思う。
H23年9月16日
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