エニアグラムとは、円を9つで区分するシンボル図形である。古代から伝えられてきたこのシンボルは、今私達に何を語っているのだろうか。
1つのものを9つに分けて持つ、あるいは、9つのものを合わせると1つになる、このことの意味は、部分に分かれているが全体はひとつにつながっている、という意味で部分と全体、また価値の総合、調和が創造へとも発展していくと受け止めることも出来るだろう。
ではいかにして9つは、その1つ、創造へと導かれるのであろうか。
それは、もともと、ひとつのものが別れて9つになったと想定してみると考えやすい。
ジグソーパズルの一片は、全部のピースが合わさって、1つの完全な絵になる。車は色々なパーツが揃って車になる。しかしそれらは、人の考えのもとに、作り出されたものである。設計者である人の意図がそれらを分けて、合成して作り上げたものだ。そこには人の意図がある。
自然の植物はどうだろう。花は、誰かの意図で生み出されているのだろうか。動物は・・・?
自然に何らかの意図があると仮定すれば、大自然の意思ともいうべきものか。いずれにしてもそれは、自然の一部である、人の意思を超えているだろう。それこそが、時間と空間の限定された存在である私達の次元を超えた力かもしれない。
しかし、同じ自然の生物である私達人類も大自然の力による融合によって、生まれてきたものだ。素材は、自然の、ギリシャ哲学で言えば地、水、火、風という4つのエレメントを用い、気の遠くなる時間を経て、自然が今日の私たちを生み出したのだと考えると、この自然の意思を感じざるを得ないだろう。それは、私達人間ひとりひとりが感じる精神的エネルギーの中にも認められるのではないだろうか。
私達、ひとりひとりの力は、不完全で弱い。しかし、いくつもの困難な課題をかかえている時には、人々の融合した力は協力してやり遂げ、難しい課題は次の世代に伝えていく中で、解決に向けて今日を迎えているのは、歴史の中に見て取れる。
何を今私達は、必要としているのか、科学技術による物質的な豊かさに恵まれながら、なおまだ、足りないもの、そしてそれは、私達ひとりひとりの胸のうちにたまってきているのではないだろうか。素朴な原始の時代の方が、寒さを克服する、あるいは、食べ物を見つけ出す、敵から身を隠すなど私たちがひとつになれる課題を共有できており、自分の心や、こんな風に生きたいと大切にしている人生の価値は感じやすく、その意味では幸福であったのかもしれない。
私達人類の永遠のユートピアを求める気持ちは、始原より続いて、それに続く課題を負って今日を迎えていると思われる。
但し、その課題は、時代が進むごとにより複雑になり、「月への移住」まで考えなければならないようになってきているようだ。電子空間であるインターネット上の仮想空間を通してのコミュニケーションにその「存在」を預け、狭い空間に縛り付けられた、身体の不満足感を限定的なトレーニングにより解消しても、心の満足感はなかなか得られにくい。
機械的になっている、自分の生活、ある日、ふと、自分の気持ちが感じられないことに気づき、自分の心はどうなっているのだろうか、不安になって考えてみても、機械的に仕切られた生活空間の中ではなんとも心細くなるばかり。
何世代も通して複雑に発展してきた社会に住む私達の心は、しかしながら、まだその性質を変えずに、ロボットではなく自然のものである限り、自然な満足感を感じたいと心の底では思っているに違いない。
多くの人々は、私達の隣に住み、自然は草花が咲き乱れ、木も森も海もその懐深く横たわっている。
人々と、自然の懐の中で、もっと、自分のかかわりたいように人と関わり、語りたいことを自分の言葉で語り、自分のやりたいことを見つけてみよう。自分なりのものを感じてみよう。
このことを可能にするツールとしてエニアグラムによる心理学は、人々の中での自分の立ち居地と、自分の持っている価値を、そのワークのなかで理解できるように導いていく。文字通り9つの価値のうちのひとつであるが・・・。人々の間で生きる、分けられた価値を持つ自分の存在それを実感する機会を得てこそ自分の人生を感じられるのではないだろうか。
エニアグラムによる自分の立ち居地と価値感が見出されると、これからの方向性が少しずつ見えてくるというものだ。それは、感情と思考、意志を、一人一人が持つバランスによって成り立っている自分の心を自覚するものの持つ、自然な調和と発展を望む動きにつながっていくからであろう。個々人の自然な住み分けによる、自然な秩序こそエニアグラムの目指すものといえるのではないだろうか。
エニアグラムのワークは、人生を通じての努力とも言えよう。まだまだ途上の私達である。
ブルーの水に象徴される、地球は、大宇宙の中で、太陽と月の恩恵を受けながら、
調和が保たれている。
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