この世界に生まれ、世界の中で、色々なものに出会う、最初は、まだ、おぼろげな感覚で、見るもの聞くもの触るもの全てが、新鮮でかぐわしい。
その素材と付き合っていくうちに、ある時を経て、自分の生に慕わしく、なんともいえない喜びのようなものを感じるという経験を思い出す方も多くいると思う。
それは、庭に一面に咲き乱れているチューリップやパンジーであったりコスモスであったり、蝶やトンボであったり、秋の山のキノコであったりする。きっと、それに自分と同じようなきらめきを感じるのかもしれない。これは、世界とまだ一体であると感じていた頃の記憶の世界である。
自然の姿は、千変万化に変わっていく。寒さと白い潔い銀世界で包むこともあれば、青々と茂った夏草と照り輝くひまわりのまぶしさ、といった四季の移り変わりにいつも身を包まれて、私たちの感情もその豊かさに導かれ、守られてているのではないだろうか、と思うことさえある。
この自然の中に、キラキラする自然の息吹を感じ、それをいとおしいと思う自分の感覚、そしてこの感覚がずっと続き、永遠のものなのだという感覚。そして世界は、いつでもこの豊かな自然に満ち、私たちの心自体も、きっとその感覚を育み、自然の一部としての、「人の心」として成長を遂げてきたのではないだろうか。そして、再び以前のようにお互いが共鳴しあうような時期を待っているのかもしれないと。
しかし、それを感じる感じ方は成長に伴い、だんだん違ってくる。ある時は、蝶やトンボが、近所の遊び友達に、クローバーが素敵なネックレスに変わっていく。つまり、自然から少し離れた、人の社会生活の中に入っていく、時には悲しいことも苦しいことにも遭遇していく。
その道筋は、わたしたちの今までの多くの生きてきた、物語や歴史の中に語られ、息づいているような気がする。
草原の輝けるとき、花美しく咲きしとき、再びそれは還らずとも嘆くなかれ、その奥に秘めたるものを見いだすべし。
これはワーズワスの詩の一節。このなかに込められているのはどんな想いであろうか。ワーズワスもイギリスの自然の中で育ち、やがて青年時代に、フランスでフランス革命に遭遇し、長い不遇の時期を経ている。
私たちの、生命の輝きは、いつもそんなに意識しているわけではないけれど、生きている限り、どんな形であれずっと続いている。それが高まったとき、周りの世界と共鳴しあって、強い感動を伴って表れてくるようだ。そしてそれは、どんな人でも、その人の感動の仕方に伴って、多かれ少なかれ、起こるもののようだ。
その自分の感動の仕方が分かったとき、またこれは自分の住処が分かったように嬉しくなるのである。そのヒントになるものを、いろんなところから、感じてみよう。いや日常の生活の中にも、それはある。ピアノやバイオリンの奏でる旋律に、絵画や詩、小説に、あるいは、料理や科学の実験室の中にもそれは感じられそう。人は、このように、創造という文化をこの世界に、作り出して自分自身を生きてきたのである。
自分の中の生の息吹き、それを感じ、大切に育てて生きたいと思う。
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