動物を見ていると、その行動のもとになっている欲求が、とてもよくわかる。食べ物を求めて、何処までも進む。何処に、どんなものがあるか、彼らは、そのからだの感覚にしっかりと覚えこんでいる。象は、アフリカの雄大な自然の中で群れとなって、食糧となる果実や水のみ場を求めて旅をする。また冬の訪れと共に日本に飛来する鶴の美しい姿は、民話の中に、人の哀感を込めて、語られることが多い。
その動きは、彼らの生命の発現であり、全てであろう。彼らの使命は、このことを伝え、生命を絶やさないように、その一生を生きる。そんな彼らの生きる時間の中で、彼ら自身の生命の輝きを自然の中で過ごすことのかけがえのない、美しさ、そこに自然の調和を感じるのは、私たちに与えられた賜物かとも思う。
人の姿は、どう映るのであろうか。その元になるのは、やはり欲求であろう。但し、人の欲求の一番底にあるものと、その表れを理解するのは、なかなか難しいものと思われるが、基本的に、人も動物の一種であるのだから、欲求を満足させるという、生命の動きとして捉えるのは、間違っていない筋道だと思える。但し、人が持ち合わせている、基本的な働きである、感覚と感情と思考からすると、誕生から始まる、人の一生の姿は、とても複雑で多様な広がりを持つものであるに違いない。
一つのキーワードは、欲求である。欲求がどんなものであるか。そしてその欲求を、どのように求めようとするのか、ここでは、欲求満足のプロセスとして、目標とそれにいたる方法、手段を考えることで、理解を深めることにしよう。
欲求にはいろんなものがあるが、大きく分けて生存に必要なものを得たい、という欲求と、人、仲間のなかでの関わりを得たいという二つの欲求が考えられる。この二つが得られていると、基本的にその生は、守られる。
となると、この二つを実現するために、それぞれが、どのような態度を発達させるのであろうか。
あるものは、ライオンやトラのように、弱い獲物を見定めて、飛び掛ろうとするのであろうか。ハイエナのように、残った獲物をすかさず見つけてた食べ物にありつこうとするのか、あるいは、象や羊のように自分に合った食べ物を見いだして群れで行動する草食動物のように生きるのか、動物の姿は、とてもわかりやすい。
中でも、象は、雌を中心とした群れを単位として生活し、高度な社会を作っている、と言われる。人には聞こえない音が聞こえ、その音を介して、仲間との会話をしているとも言われ、またとても高い認知能力を持ち、彼らを襲ったマサイ族の男性を避け、その言語をも聞き分けているのではないか、と言った見方もされている。また、仲間の死に対して、葬式のように仲間がそのなきがらの周りを囲み、鼻でなでたりする行動も見られるという。
このような象の厳しい自然を生き抜く姿は、彼らの持つ様々な特性を最大限活かしながら、集団での仲間の結束を温めあい、維持しあう姿として、私たち同じ地球に息づく生命を持つものとしての共感を覚えるものである。そしてこの生命に対する共感こそがこの世界を生き抜く智恵となり、力となって私たちを導いているのではないだろうか。
そしてそれは更に、次の時代の新しいものに出合ったときに、自分らしくまとめ、自分の世界を豊かに形作る動きによって輝きを増してくると思われる。
わたしたちの世界で繰り広げられる、ものづくり、たゆまぬ研究、様々な学び、音楽の調べ、絵画の世界、そして様々な生活の営み、それらは全てその輝きを増すものとして、私たちの明日を織り成し、輝きとなっている、と思うのである。
命の本質を捉える、それは、どんな些細なことでもよい、私たちが生きていきたいと感じるものの中に、きっとある。私たち一人ひとりは、そんな機会を自分の世界として味わいながら、一日一日を、人々と共に、底で共感しあいながらて生きて行きたいものである。
H24年1月6日 |