私たちは、ただ目を通して世界を見ているのではない。目から見えた像を色々な感覚や思考といった、複合的な“心”といわれるものに移して世界を見ているのである。
ではそのようにして、世界を見ている、と感じるとき、自分の心のめがね(主観)に気づくだろうか?
それは、時として、見えているものの感じが違うと気づいたとき。
また、同じものごとを見ていてもその捉え方がこんなに違って捉えるのだと驚いたとき。
その時々で、心のめがねの透明度や偏りが微妙に違っているからであろうか。
そして、その捉え方の違いは、私たちに一体、この先、それがどう展開し、何処に行き着くのだろうか、と期待と不安を感じさせずには置かないだろう。
入ってくる刺激とそれを「見る」「聴く」「感じる」「考える」などの複合的な働きをする特殊なフィルターでもある心という「めがね」、それは、ただいつも同じめがねではなく、絶えず微調整しながら、使われている。
調整しているのは誰か?もちろん自分である。外部からの刺激と内部から湧き上がる刺激によってそれは調整されている。但し、このめがねが自分に合うように調整される場合は、心の釣り合いが取れているということを表すのであろうか、とても快適になっていく。しかしその反対の場合はとっても苦しくなっていくのではないだろうか?
となるとこの調整する主体である自分自身の状態が影響しているのか。そうであれば、心のめがねの見え方に注意が必要ということになる。
もう少し、心のめがねについて考えを進めていくには、もっと心のめがねについての掘り下げた視点が必要となってくる。それは、自分の「心のめがね」のそもそもの性質である。それはどのようにして自分の「心のめがね」になっていったかというと、自分の見え方の必要性に応じてであろう。
ここがもっと見たい、近くをもっと見たい、遠くをもっと見たいというときにそれを実現可能にしようと最大限努力して磨いて作りあげてきたのではないだろうか。又この自分にとって必要な見方こそ自分の価値観をあらわすものとなるであろう。
さて、この見たい実現したいという要求が、行き過ぎた場合、どうなるのであろうか?丁度、近視が進み、少し、見えにくくなって、ちょっとした度数を上げればよいものを、強くしすぎた場合によく似ている。確かに見えるけれども、周りとの調和が崩れ、上手く歩きにくくなってしまう、という経験をされ方は、このことがよく感じとしてつかめるのではないか。では心のめがねの見え方が悪くなる時って、どんな時であろうか、こうしたいと思ってもなかなかうまくいかないとき、普通のときより難しい課題(ストレス)を抱えているときなどが考えられる。こんなとき、自分の状態で一時的に見え方が悪くなっていると納得していればよいが、通常、自分の心のめがねのせいにして、めがねの調整に過剰に力を入れてみようとするので、きっと、周りとの調和が崩れ、つんのめってバランスが崩れていき、必死で自分を支えているのだが、やがて疲れてしまう。
しかも、ややこしいことに、この心のめがねは、普通のめがねのように簡単に掛けかえることに思い及ばず、一旦見方が偏ったり、曇ったりすると、そのことになかなか気づけないという特徴も持っている。そうすると、何とかしようと心のめがねを調整すればするほど、うまくいかずに、むしろ偏りや曇りをいっそう強くしてしまう、ということになり、いつもそのことに集中し、ますますひどくなるという行為を繰り返すかもしれない。
こうなると自力での気づきは難しくなる。客観的にその偏りや見え方がわかる第三者でしかも、心のめがねの見え方、調整の仕方に精通している人でないと、なかなか難しいだろう。但し、心の偏りや見え方を調整すること事体は、そんなに難しいことではない。虚心坦懐に自分のあり方を考えればよいわけだから。つまり、心の状態と心のめがねは、つりあっている。そして、心の状態は、その持ち主の裾野の広さと豊かさの中で安定していくのである。そのために私たちは、何をしたいのか、何をなすべきかに思いをはせ、その実現に自分の力を傾けて生きていくことが問われている。特に今のような大きな時代の変動期には。
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