「今、幸せ?」って聞かれて、どう答えるだろうか。「はい」と答えられる人は、いろいろあっても、今の生活の中に、明日を生きるエネルギーを感じている人、そして、そのエネルギーをどこに向けてよいかがわかっている人だろう。
言い換えれば、自分がどう行動すれば、うまくいくかがわかり、それを実行し、感じられている、っていう人、ということになる?!
そんなの、ピンとこない、という方の大部分は、きっと自分の方向を模索中か、とりあえずの方向で進んでいる、あるいは、そんなことを考える暇も気持ちもない、と言われる人かもしれない。そして、こう感じるほうが、圧倒的に多いし、「幸せって、今は分からなくても、後で感じられるものだよ」と、言われる方のほうが多いものであるが・・・。
しかし、そうはいっても、どうも「この方向性に向かっていけば、満足できる、よいものがありそうだ」と感じられるかどうかが、現在の「幸せ感」のポイントになりそうな気がする。
では、私たちにとって、満足できる、よいと感じられるものとはどんなものであろうか?
これを見つけるには、「幸せって、後で感じられるものだよ」といわれた方のヒントを頂戴し、少し過去をさかのぼって見るとよいのではないだろうか。私たちが、今までの経験の中で、どう行動し、どんなものに満足を覚え、どんなふうにそれを求めてきたのであろうか。このプロセスを振り返る中で、幸せの形とそれを求める姿が浮き上がってくるのではないかと思われるからである。
ほんの一昔前、昭和30年代はまだまだ、ものが豊かとは、いえない時代であったろう、
今のように、ひとりひとりが欲しいものを、いつでも手に入れることができる時代と違って、食事は、食卓で、皆が食べるときに食べないとありつけない、肩を寄せ合い、冬は、鍋を囲む、夏はそうめんを、といった具合に。
そこでは、家族の温かみ、居るべきところにいるという、安心感、幸福感の実態とでもいうようなものがあったような気がする。何が違ってきたのだろう?
その当時でも、ほしいと思うものは、いろいろあったと思う。今日はカレーライスが食べたかったのに、と思いながら、いつのまにかお変わりをして、「今日のお鍋は美味しいね」とか言いながら、自分の気持ちがなんとなく和んでくるのを感じられたりしたものだ。
自分の気持ちを合わせる相手があると喜びは、倍になってじわーとお湯の様に、温かく感じられるものではないだろうか。
今なら、自分のほしいものをコンビニで買って、一応の満足はするのだけれど、予定通りの行動で、プラスアルファの喜びはまずない。時間の消化をしているだけである。
となると、幸せ感は、相手とつながりをもてたときに、感じられるのではないだろうか。
誰かのために、心を使い、それだけでも、満足を感じられる、人ってそういうふうに感じるところがあるようだ。
ではその心の使い方は、どうすればうまくいくのだろう?これはひとりひとり、置かれた環境も違い、表し方も違う。自然にそのチャンスを待ち、実行すればよい、チャンスはその気になればどこにでもある、それに気づく感性と実現させる行動をこころがけることが大切なのかもしれない。心は、幸せを感じる場所を求め、そこで使って欲しいと求めているし、何よりも、自分で自分の幸せは創りだしていけるものだと思う
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