社会人、一人前の大人、成人、私たちは、いつ頃からともなく、社会の中での振舞い方を、身につけてきている。一体、いつ、それを身につけてきたのだろう、そんな分別や力を?
私たちは、大人になるまでに、どんなことを思い、どんなことをやってきたのだろう?
親から、躾を受け、友達と遊び、やがて学校へ入り、受験勉強、部活、サッカー、野球などのいろんな活動を通して、目標に向けて動くということを学んできた、気がする。
何かに向かう、それが何であれ、またどんな結果になろうとも、自分の行動と、それに向かう意欲と力を集中させるということを経験してきた。
どうしてそれが、目標となり、そんなに一生懸命になれたのだろうか?
きっと、そこには、暗黙のうちに、社会に出ていくための自分の力の方向を感じ、その先に続く自分の人生を感じていたからであろう。そしてそれを「よし」として、認めてくれる社会、大人の暗黙の了解があったように思う。
時々くじけそうになる自分を感じる。「こんなことではダメだ、この程度ではダメだ」と。
やってみて初めて、自分の力の程度を知る。だめだとあきらめる力、そんな自分をさらに引っ張っていこうとする力、このせめぎ合いで、苦しみ、悩む過程を経て、自分の姿を掴んできたのではないだろうか。
その時々の社会は、社会がうまくいくような力を必要とするし、それを要求する。
そしてそれは、その社会で活躍している大人の希望という形をとって、自分の子どもや、教え子、部下などに、家庭や、学校、職場などの場を通して語られ、求められてきた。
戦後社会の復興の課題は、ものづくり、科学技術の進歩であり、今定年の時期を迎えている団塊の世代は、この国力を増す、社会の一大目標の中に個人の成長と自身の生活の目標を見出した世代である。
それは、わかりやすく、乗りやすい課題であった。彼らにとって、一生懸命努力し、勉強して、自分の能力−技術力であれ、思考力であれ−、を身につけ、それを社会の中に活かすことによって自身の恩恵を受けることは、自明の理であった。
しかし今日、日本の社会は、物質的には、かなりの水準を維持し、一定程度の満足は、皆の意識にあるように思える。そのことは一時代前の「皆が中流」という意識を持っていたことを考えればうなずける。
そうなると、社会の目標は、どうなるのであろう?社会の目標は、今までの状態の維持、サポートと、新たな目標への模索となる。新たな目標は、今までより高いもの、例えば、ナノテクノロジーや宇宙開発、選りすぐれた、情報機器など一段高い科学技術の進歩、開発などであろうか。 また、今までの目標の維持サポートとしては、旧来の体制の持続としての子どもの教育水準の維持としての塾や受験体制として奨励されるだろう。
ではこの他の新たな目標として何が意識されるのであろうか?
社会は、その時々の進展の具合を映して、我々に目標を意識させるものである。それが見えやすいときは、声高に語られ、我々に迫ってくる。がしかし、その目標が、用を終え、あるいは、違う目標に移り変わるとき、なかなかその姿が人々の意識にはっきり掴めないときがある。 特に、以前の目標の陰に置かれ、意識されにくかった問題として、隠れているときはそうである。
かくして、大人は、次代の若者に目標を語れないまま、模索の時代が続き、‘不都合な問題としてそれは、表れてくる。
環境問題、少子化、老人問題などが政治という全体の視点から意識され、家庭の問題、人々のコミュニケーションの問題は個人の切実な問題として、感じられてきている。また最近の働く環境も、メンタルな問題として提起されている。
それはまた、我々の生きていくうえでの最も基本的な問題としての、環境、家庭や地域社会という人の生きる場のあり方などとして、あまりにもそれらが省みられなかった以前の時代の‘つけ’として表れて来ている、のではないだろうか。
今日、大多数の人に意識されるのは、この「行き過ぎた」社会を維持し、支える社会の側に生きるものとして、「人として、いかに生きるのか、わたしたちの地球環境や社会をどうすればよいのか、という生き方の問題として」まとめられるのではないだろうか。人類社会の古くて、久しい課題であるが、社会の様相が変わるとそれはいつも新しい側面を課題の中注ぎ込みながら、私達の前に立ち現れてくる。課題の達成は、それだけ複雑になるし、時間もかかるものとなってきそうである。
この課題を、若者はどう自分の中に組み込んでいくのであろうか?
自分を知りたいという若者がふえている、と聞く。
自分を知る為には、人と人の間に入らないとなかなかつかめるものではない。以前は、仲間内の自由な
育ちあいの場や、生活経験の場があり、自分の姿は、誰に言われるともなく、思春期を過ぎる頃には、自
覚できていたようであるが・・・。
今は、若者は、その思春期のほとんどを知識習得という目標の為、競争を強いられることが多いので、
「自分が本当は何をやりたいのか、何に向いているのかわからない」と思う学生が増えてきているときく
自分探しのための時間が必要なのかもしれない。今までの歴史の中には、共同体の目標を伝えるため、若者にはイニシエーション(大人への通過儀礼)という時期をとり、その成熟への時期を待つ、というシステムが考えられ、実行されてきた。また、先人の伝えてきた、文学や哲学、宗教や、芸術など成熟を促す精神文化の宝庫がある。個人、個人が、それらを色んなところに、色んな活動の中に見出していく、という時代、であろう。情報化社会というのは、まさにそれを量的にも質的にも高め、推し進めていく時代でもあるだろう。
「自分は何をやろうとしているのか、何をなしうるのか」を問い、自分の歩みを見出すために、心理学や哲学や、さまざまな教えを求めるものもいる。また、自分のやりたいスポーツや、アルバイト、ボランティア活動に励むものもいるだろう。それらを自分のアイデンティティを求めるビジョンクエストの旅として、大いに活用し、自分の人生にどう組み込んで生きていくか、現代の若者にとってのイニシエーションは、個人のビジョンクエストの旅として、以前より複雑で、より長い期間を必要とする、大切なものとして感じられているのではないだろうか。
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